1945年9月5日付けSydney Morning Herald
泰緬鉄道の現場で労働に従事させられていた捕虜は日常的に殴られた。
日本に送られたある捕虜はシャツに付いたシラミを捕ろうとそのシャツを働かされていた工場の加熱炉に吊したバケツに入れていたのをとがめられて殴殺された。
米軍第八軍によると、日本本土には3.6万人の捕虜がいてそのうち8000人が米国人、残りが豪、英、蘭人だという。ジャワで1942年に捕虜になった豪人は蘭軍が降参したので一緒に捉えられ、普通だったらせいぜい150人入れたら一杯の船のホールドに600人入れられてシンガポールからラングーンに連れて行かれた。横になることもできず、日本人が自分たちの食事を作る器から直接焦げたコメを食べなくてはならなかった。(注:ひょっとするとこれは飯ごうのことではないか。)
ラングーンからは多くの英軍人が働かされていたモウルマインに連れて行かれた。
その後1944年に川崎の大規模な石油精製プラントからすぐのところへ連れて行かれた。そこへ連合軍の爆弾が落ちて、英、豪、蘭人捕虜が大量に死んだ。
日本に来てからの方が暴力は激しかった。