されどわが日々

NIKON Coolpix P900/SONY RX100V オート専門

誤解

 長いこと素人衆が唄う会の司会(今の若者たちはこれをMCと呼称する)をやっていたことがある。なにしろ人前で何かするということにかけては昔からいろいろ見てきたけれど、おおむね人前でやる力がなくても思いきって何かをしたら周りは驚くと思っている類に分類できる連中というのが確実に存在する。

 昨日もそうだったのだけれど、その男は多分40歳前後。司会をしているのが私だということは多分入ってきた時に私を見ているはずだからわかっているはずだ。二つ前の人が唄っている最中に演者を確認するのだけれど、どうもそれらしいのが目に入らない。楽屋に降りてみると、やたらスプレイの匂いがする。何事かと思っていると太った男がもじゃもじゃの頭をことさらにもじゃもじゃにしながらそれを固定しようとしている。狭い楽屋でそんなものを振り回すこと自体がもうおかしい。

 私が挨拶をすると、この男は目も配らずにスプレイを続けた。この時点でもう私は分類化した。こいつはバカだ。名前を聞くと「○○でいいです」という。なんだ、その「いいです」ってえのは。あぁ、もういいや。そしていざ前の演者が終わって袖を見たら来ちゃいない。笛を吹き始めた。なんだよ、下手っくそじゃねぇか。と思うまもなく、アカペラで即興の歌なんだかご詠歌なんだかわからんものを唸り始めた。その合間の喋りは単なるセクハラオヤジのばかっ話だ。こういう輩が多すぎる。世の中を舐めている。ところがこういう連中を集めてくる奴にいわせると、彼らはそうでもしなけりゃこの世の中を生き続けていけないんであって、誤解でも良いから少しは居場所を見つけられればいいじゃないかという。その点では認めても良いような気もしないではないけれど、他人に迷惑をかけて欲しくはない気もする。

 例えてみたら、反社会的存在たる「893」だって同じようなものかも知れない。世の中に居場所が見つけられなかった。その「居場所」としての存在かも知れない。

 しかし、その影響をもろに受けてしまう側にとってはよい迷惑であることは事実だろう。

 歌い手になりたい女性と役者を目指す女性を比べると顕著な差は役者を目指す人間にはなぜか自立した考え方があるのに、歌い手を目指す人間には自暴自棄的傾向が強いという点が気になって仕方がない。

 第一歩からいうと役者系はちゃんと挨拶ができる。歌い手系はそこを人から教わらないとできない。